★やぎ座・冥王星の新時代「2008年」★

いよいよ2008年が始まりますね。

まあたいそうに「いよいよ」とか言わなくても、ごくごく普通〜に365日ごとに新しい年は巡ってくるわけなんですが、2008年というのは転期というか、わりとはっきりとした節目に当たる年だと思うので、そんな思いをこめて「いよいよ」とか言ってみました。

なんで「節目」かというと、これは単に「冥王星がやぎ座入りするから」です。

冥王星は「抜本改革の星」です。「改革の星」は他にも土星、天王星などがありますが、冥王星は担当する領域がひときわ深いので結果的に「抜本」になるし、扱っているものの重さがちがうので、そのために「徹底的」なやり方になることがあります。自分が守らなければならない大切なもののために、目の前にあるすべてを犠牲にする。そして、守り切れないのであれば、その守っている「それ」とともにまるごと焼き払ってリセットする。そんな感じがあります。

それは、冥王星にはもう「後がない」からで、他の天体のように「今回はここまででした、あとはよろしくお願いします」と預ける先がないからです。でもって「ていうか、無理でした」と返品できるところもない。後にも先にもひけない場所におり、自分以外、誰も頼れず誰もいないという孤立無援の崖っぷちが冥王星のいる場所だからです。

冥王星は公転周期が遅く、人の一生の中で、ホロスコープ内で同じ場所に戻ってくることはありません。通過するのみ、やり直しとか修正とかは絶対にきかないです。まあそれは海王星も同じですけど、海王星や天王星とは性質がちがう。冥王星を考える時、引きあいに出せるのは土星ですね。あと、太陽と月。ホロスコープの中央の柱に位置する天体です。

冥王星の意味合いや性質については別の記事に譲りまして、ここでは「やぎ座・冥王星」に絞って書いていきます。


●2008年の目玉は冥王星やぎ座入り●

ホロスコープは、大きく分けて3つの要素からできています。

・天体
・サイン(ハウス)
・アスペクト

サインとハウスは厳密には別のものですが、世相や運気自体の波として見る時には、私はハウスは使いません。ホロスコープ自体には必ず軸(ハウスを決定する計算ポイント)があるので、トランシットチャートにもハウスはあります。ただ、ハウスは「かなり個人的なもの」だと思っているので、個人のチャートを読む時には重視します。まあ、建国日時を出生日時として作られた「国の出生図」もあるので、それを使って世相を読む人はハウスを重視されるのかもしれません。

で、サイン(ハウス)は色です。天体は形。アスペクトは天体同士が重なったりぶつかったりして作る「様相」ですね。どんな形のものがどんな色に染まって、他の天体とどう絡まっているか。それを読むのがホロスコープというわけです。

2008年のホロスコープの中で、目立つ特徴は 冥王星がやぎ座に入る(冥王星の色が変わる)ということなので、このあたりに2008年およびそれ以降の流れや波を探るヒントがあると思います。なので、冥王星とやぎ座の性質を知ることで、2008年の特色(=どんな形でどんな色なのか)を知ることにつながっていくのだと思います。

ということで、冥王星については先ほどすでに触れました。平たくいえば「改革する性質」ってことです。で、ホロスコープにおいては、月や太陽など公転周期の速いものは人の生活や感情などの「身近なもの」「日常のもの」を管轄し、木星や土星はその一段階広い「社会的なもの」、土星以遠の外惑星はさらに広範囲な「グローバル(世界それ自体)」を担当し、影響すると考えられています。

冥王星は外惑星の中でももっとも遠くにあり、これは世相というよりも世界、というよりも「世界そのものが含まれるすべての範囲」を担当しているように思います。人個人も、それを包括する人社会、国、あるいは地球、さらには宇宙自体がすっぽり収められてしまうような広範囲(あるいは深部)を担当し、そこを改革する。それが冥王星です。

そして、その冥王星が「どこをどう、具体的に」改革していくのか、ということが入室するサインで示されるわけです。そこにスポットライトがあたり、そこが浮き彫りにされる。そしてこの冥王星の改革は、世代や人種を超えて多くの人がともに影響を受けることになります。ただ、その影響力は、月や太陽のような「身近で日常的な物事」のような形では実感されないので、個人的な事件や出来事としてすぐに形になったりすることは少ないと思います。

それでも、冥王星によって変化する波を感じ取り、その中で自分の生きる道を模索する。そういうことがホロスコープを見る意義だと思うし、大事なことかなと思います。

で、冥王星の影響の出方というのは、非常〜に薄い色合いの水彩絵の具で、画用紙全体を静かに塗っていく。そんな感じです。

色が薄くても、一ヶ所だけにポトッと落されるなら、すぐに目につきます。そこだけシミになるし、落ちる衝撃もある。でも冥王星はそうじゃないです。画用紙の地の色とわずかにしか違わないカラーで全体を塗る。だから気づかないことの方が多いはずです。そして、徐々に色が重ねられていって、気がついた時には白かった紙が青くなっている。

で、その上に黄色を乗せたら「緑」になってしまう。紙が白い時と同じように絵具を使っていたのではダメだということです。今までそうだったから、と言ってそれまでのやり方にしがみついていては、思うような絵を描くことは永久にできなくなる。

それが「時代が変わる」ということではないかと思います。


●時代が変わるとはどういうことか●

これからは、絵の中に「黄色い部分」を作り出すことは困難になります。黄色い絵の具で「黄色い絵」を描ける時期は終わったということです。これからは黄色を使って「緑」を描く時期、あるいは赤を使って「紫」を描く時期だ、ということです。

画用紙の上で、もう「黄色」を見ることはできない。それはこれまでの時代の中で充分にやり、完了させておくべきことだったからです。そして、これまでの時代に「黄色」をちゃんと見て理解してこなかった人は、これからの時代にもそれを使うことはできません。なぜなら「それが黄色だと知って、ちゃんと使う」ということができないからで、知らないものは使えない。自分の絵の具箱の中に黄色が存在しない、ということだからです。

そうなると、新しい画用紙の上で「緑色」を作ることもできなくなりますね。そしたら当然、黄色を持ってる人と同じ絵を描くことはできません。それで、結果が違ってくる。受け取るものが違ってくる。それは持ってるものが違うからで、差別とかではないのですが、「同じものを持たずに、同じ結果を受け取りたい」と思う人にとっては、大きな差別、格差になる、ということだと思います。

これまでの時代とは「いて座・冥王星時代」のことです。これは1996年から始まった時代で、いて座が担当する「海外・哲学・精神世界」などにスポットが当たり、世界の広さを実感する人が増えたという感じがあります。また、いて座はさそり座を超えたサインですから、さそり座の持つ「どうにかして他者と、個の殻を突き破って一体感を共有したい」という思いに対して、達観しているところがあります。

つまり、個の殻は突き破ることができる。しかし、それでもやはり限界はある。お互いに自分をさらけ出し合って一体感を共有しても、「お互いが個である」というところの尊厳は踏みにじることはできない。みたいなことです。

さそり座が求める一体感は、場合によってはお互いの「個体差」を認めません。人はどこまで行っても「個」であることは変わりません。ワンネスとか、神の子とか、すべてはひとつ、とか言いますが、それは確かに正しい形容だと思います。でもそれは、すべてがひとつの「同じもの」になっているということではない。大きな固まりの中の「細胞のひとつ」として一体だ、という意味であり、あなたも私も「全く同じ、同じものだ」ということではないと思うのです。

考え方や嗜好や方向性が異なることは当たり前なことなのです。だから、同じように「幸せ」を求めていても、その内容が全く異なっていたりして、それでぶつかる。

たとえば、ある国は他国と比べて文明レベルが低くてGNPも低くても、自分たちの文化とやり方で暮らすことが「幸せ」だと思っている。それで世界の主要国家から「非文明国」と思われて相手にされなくても、それでいいと思っている。

そして、ある国は世界のすべての国が高度な文明を持つこと、それが「幸せ」だと思っている。そして非文明国に文明をもたらすこと、それがみんなの幸せであり、自分自身の「幸せ」であると思っている。

そりゃ〜戦争にもなるってもんだ。

幸せの押し売りセールスマン。
そいつらに「自分たちの幸せ」を奪われると知って、抵抗しない馬鹿はおらん。まあ、そういうわけです。

彼らの「それぞれの幸せ」、この二つの相反するもの、「同じ言葉の別のもの」をぶつけあい、でも諦めなければ必ず「一体になれる」と信じていたのがさそり座の時代です。そして、とことんぶつけあい、「もしかして、一体になれないってことがこの世にはあるのかも」ということが見えてきたのがいて座であり、「じゃあどうするのか」っていうところで、「本当の一体感とは、お互いが個であることを、認めることじゃね?」みたいなことになっていったのがいて座時代だったのではないかと思います。

「みんな同じだから一緒だよね!」という一体感から「みんなそれぞれ個だ、という点で一緒だよね!」というところへと変化していったわけです。それで、それぞれが自分の個をもう一度見直してみよう、ということでそこに目が向いていった。みんなが自分の個を追求・探究する時代、それが「いて座・冥王星時代」だったような気がします。


●いて座冥王星時代とのちがい●

このように、今までの「いて座冥王星時代」は、いて座らしく「個を探究する時代」だったように思います。多くの人が「自分の可能性」を模索し、自分の居場所としての天職を求めて転職するという風潮に象徴される「旅人気質」みたいなものがベースにあったように思いますね。自分が今持っているもの、ではなく、自分がまだ持てるもの、見逃している宝物がどこかにあるのではないかという予感。いて座はタロットの9「隠者」と似た性質を持ち、降りてくる啓示に従って(隠者は持っている杖でそれをキャッチする)どこまでも歩き続ける、という性質です。

しかし、そういった探究の時代はまもなく終わるということです。なぜなら、やぎ座はいて座を締めくくり、いて座の限界性を明らかにして、そこから新しい可能性を探り始めるサインだからです。個人を追及すること、個であることを重要視すること、個でいることにこだわること、言ってみれば「個の限界」を明らかにします。

「個であること」のここでの意味は、そこに発生するエネルギー循環を他者や社会に流さずに個人の中にとどめておくこと、です。タロットの9「隠者」は、人里を離れ、社会や世間に背を向けています。たった独りで旅に出て、そこで出会うもの、新たに得た啓示は隠者ひとりのものになり、他人に還元されることはありませんでした。

で、時代が変わるということは、そういった隠者的な探究の旅が終わりを告げるってことです。自分が得たものを自分のふところに入れてしまうとどんどん枯渇していく。一人で孤独に旅をしていればやがては飢えて死ぬだろう、ってことです。これは何も意地悪とか悲しい定めとかではなく、「一人旅を終えさせるための警告」であり、親切なお知らせってことです。一人旅の間に得たもの、それらはたしかに隠者を潤し、悟りをもたらした。そして、時は満ち、それらを隠者の知恵として世間に還元する時がきた。ただそれだけのことなのです。


●やぎ座時代に得られるもの●

いて座時代は「探究すること」がテーマだった。それはいて座がそういう性質だから、というよりは、この期間は探究するのに適していますよ、めいっぱい探究してもいいですよ、という意味なのではないかと思います。 そして、探究するのであれば、この時期に(いて座時代に)きちんと探究をして、見つけるべきものを見つけておきなさいね、ということです。

世間全体の空気が、自分探し・可能性探しだったここ10年ですが、時代の波は変化するってことですね。ここから先は、ちゃんと探求をして、可能性なり自分自身なりを手にした人だけが進める道なのかもしれません。 なぜなら、それを見つけていないのであれば、この先もまた「引き続き探究する」ことになるし、それでも時代はどんどん進んでいくからです。

黄色を持っているものだけが描ける「緑色の絵」。それは、
自分の個性を世間や他人に還元することができる隠者だけが得られる 「自 分 の 居 場 所 」。

隠者が放浪を終え安住の地を得るには、地域や集団、あるいは社会の中で自分の役割を持つことです。自分の役割ときちんとこなし、他に利すること。そうすることでしか「自分の居場所」は得られない。それがやぎ座というサインです。

さそり座では「異なる個をどうやったら一つにできるだろう」と考えていた。
いて座では「異なっているということを丸ごと受け止める」という形で解決を得た。

そして、いて座では「私の居場所はどこにあるのだろう」と探してきた。
これからのやぎ座では「居場所とは、自分の持っているものを与えればおのずと発生する」ということを知っていくように思います。

「自分の個性」だの「本当の自分」だのを、発揮できる特別なステージがあるわけではないのです。自分が「本当の自分」を発揮することによって、周囲がその人の役割を知り、椅子を持ってくる。ただそれだけなんですよね。今、天職がわからなくて、自分的にはつまらない仕事をしてて、「だから私は輝けないんだ」と思っている人がいたら、もったいないことしてんな〜って思います。

輝くことが先なんです。

舞台を作ってもらって、セッティングしてもらって、観客を呼んでもらって、衣裳を着せてもらって、ぜ〜んぶお膳立てしてもらわなかったら、輝けないですか? だとしたら、お た く な に さ ま で す か ?みたいなことですよね。

やりたいこと、やっちゃえばいいと思います。これからの時代は。やったもん勝ちなところがあると思う。


●やぎ座が飲み込む「自立していない個」●

やぎ座はかに座のオポジションに当たる場所にあるサインです。オポジションというのは向かい合っている状態で、鏡みたいな感じですね。一見すべてが正反対、しかしその本質は同じだったりします。

かに座は4ハウスとも関連があり、母性としての大きな母体を表します。3ハウスで自立した子供だけが飲み込まれずに渡れる「グレートマザーの沼にかかる橋」でもあります。そのオポジションにあるやぎ座は、母性に対する「父性」を表します。母性を渡って社会に出た子供が、今度は社会人として自立していく。そこにかかる橋。それがやぎ座です。

なので、かに座の時と同じように「自立していなければ飲み込まれる」ことになります。いて座で個を探究し追及できていなければ、社会の中で「自分だけの居場所」は確保できず、社会に飲み込まれてしまいます。かに座の「母性による飲み込み」は、自分の意志で人生を決められず、親の人生観をなぞって生きるしかない非力な個人を作りました。やぎ座の父性が飲み込むもの、それは「社会の中での個人の道」です。つまり、社会の中で「一人の個」として尊重されず、自分の意志には関係なく働きを強要され、自分の個性を発揮する場も与えられず、一方的に支配されて生きるしかなくなるってことです。

で、そうやって辛い目にあうと、人は退行します。先に進むよりも戻りたい。元いた場所はよく知っているし、そういう馴染みのある感覚は安心するからです。

自転車で街中を走っていますと、狭い路地とかでふいに横切る人とぶつかりそうになることがあります。で、相手を避けようとしてハンドルを切ると、その人も横切るのを止めて後ずさってくる。いやいや、あんたが渡りきってもらうために私こっちへ避けたんですけど、なぜに…。みたいな「あらあら事故」的な、関西のおばちゃん劇場になったりするんですけど、そういうのを見てて、人って危険を感じるととっさに「戻ろうとする」習性があるのかも、って思ったりしますね。

まあ、あらあら事故はともかく、そういう「戻ろうとする」習性は、精神的な面ではけっこう強いように思います。

なので、やぎ座の中で辛くなると、いて座に戻ろうとする。で、いて座のやり方で進もうとする。つまり「自分の居場所を探す」ことで、居場所を確保しようとするわけです。でももう、それができる時期は終わってるのでね。時代遅れってやつなんですね。

やぎ座っていうのは、「探す時代」じゃなくて「作る時代」。自分がまず輝いて見せて「これでどうだ」と問う時代だってことです。

舞台がない、セッティングができてない、衣裳が、メークが、観客が、といろんな理由をつけて、輝いて見せることができないでいた人たちも、ついに「輝いて見せれる時」がやってきたわけです。ていうか、「しのごの言わずに、やってみせてください」って言われちゃうんですね。

で、もうやってみせるしかなくなります。

それで、実際やってみたら「口ばっかりで全然輝いてないね」ってなるかもしれないし、自分で思ってたよりもずっと輝きが強くて、思わぬ椅子が差し出されたりするかもしれない。「全然だね」ってなった人も、そこでいて座に退行して逃げ込まなければ、そこから始めることができる。自分が思ってたよりもずっと小さくてヘボくてちっぽけな椅子であっても、それは世界にたったひとつの「本当に、自分だけの、誰にも奪われることのない真実の椅子」です。

人は何かをやる時、どうしても結果にこだわります。

でも、 結果として、レベルに達しなかったり失敗に終わったりして、表面的には「できなかった」ことであっても、それは関係なくて「自分が全力を尽くす」ということ、なんですよね。

たとえばテストとかで、結果は同じ「20点」であっても、自分のレベルで精いっぱい努力して臨んだ人と、授業をさぼりテスト勉強もさぼってその結果だった人とでは、そのプロセスの中で身についたものって全然ちがうと思います。前者は、耐久力も付くし「自分の限界」を知ることもできる。その結果が「20点(100点満点で)」であったとしたら、そこでまた「自分の能力」を知ることにもなるわけで、それって「自分の可能性を知る」ってことです。

可能性を探るっていうのは、なんとなく希望にあふれて楽しそうなイメージがあるかもしれませんが、実際には「何ができて何が無理なのか」っていうことを探るという意味で、「可能性つぶし」ともいえます。ひとつずつ、自分を限界まで試してみて、可能性があるのかないのかを知る、ということですから。

さぼったり逃げたり、言い訳の陰でぬくぬくと楽をしてきた人は、自分の可能性にひとつも触れることができないです。限界に行きつかずに余力を残して終わっているからで、可能性の扉はその向こうにあるからです。

自分がどこまで、どのように輝けるかを、実際にやってみせること。そして、その中で全力を尽くし、自分の可能性に実際に触れていくこと。その結果としての「等身大の自分の実力」、これを使って、自分だけの椅子を手に入れること。

それが、やぎ座・冥王星時代のテーマなのではないかと思います。

やぎ座は社会を示すサインであり、社会の頂点を表す場所でもあります。ホロスコープ内の頂点(MC)は10ハウスの始まりにあるポイントで、ASCで生まれた人はひとまずそこを目指して上昇していく。やぎ座は、10ハウスと関連があり、社会に生きる人の頂点を表しています。

そして「頂点」とは、「これ以上は昇れない限界点」ということであり、言ってみれば「完熟」ということです。
「完熟」とは、すべてにおいて限界に達している状態です。

そして、限界に達することができるのは、自分を惜しんだり温存したりせずに全力で注いできた人だけ。今後始まる時代は、こういう人たちのために用意されたステージであり、これまで全力でやってこなかった人たちはどんどん居場所がなくなっていくのかもしれません。

いろいろなところで「二極化の時代」とか言われていますが、たしかにそうなるのかもしれませんね。でもその二極化、そこに生まれる格差というものは、上にいる者が埋めてあげられるものではないように思います。これまでの格差というものは、貧富の差であったり生活環境の差であったりしたため、富む者が埋めることができた。

でも、今後作られる格差は、非常に内面的で精神的な部分なので、他人にはどうしようもないことですね。


●どうすれば輝けるのか●

どうすれば「自分を全力で費やせるのか」ということを教えてもらっても、それは単なる方法論や心構えであって、そういう場面が来た時に「自分が全力を尽くす」という、自分が行動すること以外に方法はないからです。

クロールや平泳ぎのフォームを教えてもらっても、自分が実際に水の中に入って「泳いでみる」こと以外、泳げるようになる道はないです。

舞台セッティングが完璧でも全然なくても、そこで一人で踊ってみせる(輝いてみせる)というのは、すごく怖いです。勇気がいります。誰も頼りにできないし、失敗するかもしれないし、でも失敗できないし、とプレッシャーなことばっかりです。

「どうすれば、怖がらずに踊れるの?」とか質問する人もいるでしょうけど、それは愚問です。
なぜなら 「怖くない人なんて、いない」 からです。

みんな怖い。

なので、ただ踊るか踊らないか、それだけのことなのです。
でもって、「踊らなければ始まらない」 です。

踊らなければ始まらない。そして、始められないものは飲み込まれる。ただそれだけです。

なんかこうやって書くと、非常に厳しくて暗い時代な気がしますけど、そんなことはないです。

いて座時代に個を探究してきた人にとっては、いよいよ自分を思いきり表現できる時代になるからです。いて座時代に、怠けたり妥協したりすることなく、自分の可能性をひとつずつ探って潰してきた人は、そこで潰れなかったものを「自分の実力」としてしっかりと持っています。痛くても辛くても、潰れるものは潰し、そこで残ったものを大切にしてきたんですね。

自分を大切にする、とか言いますけど、可能性が潰れるのが痛くてすべてを温存する人もいます。それは「自分を大切にしてる」んじゃなくて「自分を甘やかしてる」ってことだったんです。甘やかされると、その時は嬉しいし「ありがとう、大好き!」ってなれるけど、後になって辛いです。基礎体力とか耐性がつかないから、何をやるにも人よりしんどい、となったりします。

やぎ座・冥王星時代はもう始まりました。でも、いて座・冥王星時代はまだ終わっていません。

2008年の1月に冥王星はやぎ座入りして、その後7月にまたいて座に戻ります。冥王星は逆行するので、そう簡単にサイン移動を完了しません。で、本当に完全にやぎ座入りして、いて座時代が終わるのは2008年の12月ですね。

なので、いて座時代にやっておくべきことがまだできてない(><)とかいう人もあと1年くらいは猶予があります。自分で振り返ってみて、いま一つ間に合ってないかも、という人は、どうにかしてこの期間に間に合わせれば、なんとかなります。

たとえ、順調に頑張ってきた人と同じ結果は得られなくても、自分の手で自分のツケを払うことですね。

それが、ちっぽけであっても「自分だけの椅子」を手にする方法だと思う。

そうやって、自分の手で自分の人生を頑張って行こうとする人の「輝き」は、小さくてもけっして弱くはないです。だから、簡単にかき消されたりはしない。輝きを失いさえしなければ、あとでいくらでももっと大きくまぶしい光に変えていけると思う。

今年は、その大切は「失ってはいけない種火」をしっかりと守る年ですね。

見えてきた道が平坦ではなくても、そこだけは失わずに歩いていけば大丈夫だと思います。

23:36 2007/11/28






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